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言語はいかにして色の名前を得るのか

20061029.jpg
 news @ nature.com より。
 
 色には名前があります。だいたい波長が 625-740 ナノメートルの光が目に入ると、僕たちはそれを「赤」と感じます。また、500-565 ナノメートルだと「緑」と感じるし、この2つが混ざった光には「黄」を感じます。
 
 こうした色の名前は、言語によって、呼び名の割り当て方がちがってきます。それは単に言葉がちがうというだけではなく、ある言語では日本語や英語で言うところの「青」に相当する言葉が存在しない、といったこともあります。
 
 さて、言語によって色の呼び方に違いがあるというのは述べたとおりですが、ではこれらの違いを生み出すのはいったい何なのか? という問いは、いまなお議論を起こしている問題だそうです。本記事では、ここ10年間でどのような議論がなされてきたかに関しても述べられており、たいへん面白いです。
 
A red by any other name
(他の名前で表される赤)
http://dx.doi.org/10.1038/news061016-3
 
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 私たちが色を分類するやり方は、生理学的に組み込まれているのだろうか、それとも文化的に形づくられるのだろうか。前者を支持する新たな分析結果が出たことを受けて、Heidi Ledford がこの十年来の議論を吟味する。
 
■ 何についての騒ぎなのか?
 
 それは本質的には、さまざまな言語がいかにして色をカテゴリー分けするのかに関する、「自然(Nature)対教育(Nurture)」の議論である。たとえば、英語では、赤に対する言葉があり紫に対する言葉があるが、これは全ての言語でもあてはまるのだろうか。
 
 私たちの色の知覚のしかた、カテゴリー化のしかたの根幹にある生物学的基盤が、すべてを支配すると言う者がいる。こうした人々は「普遍主義者」である。一方では、多くの人類学者が、私たちの色の定義のしかたは文化的な需要によって形づくられると考えている。こうした人々は「相対主義者」である。
 
 1940年代から1960年代を通じて、色のスペクトルの切り分け方はすべての言語で異なっているという見方が教科書的だった、とバークレーのカリフォルニア大学の言語学の名誉教授 Paul Kay は語る。Kay らが1969年に、サンフランシスコのベイエリアの居住者の20言語を調査した結果を発表した際に、この支配的な見方は変わった。
 
 「そのとき以来、さまざまな言語において、人々が色空間を切り上げるやり方はランダムではないという論文が続々と出されてきました」と Kay は語る。しかしほとんど全ての議論において同じく、多くの研究者たちが普遍主義と相対主義の中間に位置しており、議論は高まりを増している。
 
■ これを解決する方法はあるのか?
 
 1976年に Kay らは、世界色彩調査を開始した。フィールドワーカーたちは世界中を4年間歩き回った。彼らは320の色付きチップを含んだキットを運び、参加者たちにそれぞれを色として分類するよう依頼をした。回答は110言語の2616名の提供者から集められた。
 
 この調査の目的は、基礎となる色の単語とその使われ方を特定することだった。「基礎的な」単語として数えられるためには、その単語は簡潔であり、頻繁に使用され、一単語である必要があった。フィールドワーカーたちへの指示には明示的にこう述べられていた。「関心があるのは『赤』といった返答であり、『数時間前に死んだオオハシの血の色』といった返答ではない。」
 
 これらのデータは1980年からのものであるが、公にアクセスできるデータベースに変換されたのは2002年のことだった。
 
■ 新しい点とは?
 
 コロンバスのオハイオ州立大学の Delwin Lindsey と Angela Brown は、以前に用いられたよりも洗練された、個々の返答を別個に見るという統計手法を使って、このデータを再分析した。彼らの分析によって、8つのカテゴリーが得られた。あらゆる言語は、基礎的な色をこの中から選択する。赤、黄またはオレンジ、緑、青、紫、茶、ピンク、グルーである。
 
■ グルーって?
 
 世界のほとんどの言語は、緑と青の間の区別をしないと Kay は語る。その代わりに、2つの色は、言語学者らが「グルー(グリーン+ブルー)」と名づけるところのカテゴリーにまとめられる。
 
 緑と青の間の区別ができないいうのは赤道近くで非常に一般的である。日光と紫外線にさらされることが、そこに住む人々のレンズを黄ばませ、色を感じる能力を変えたのだと Lindsey は主張する。
 
 Kay はこの説明に対して、この黄色化は白内障患者においてみられると反論する。一般的に白内障患者は、青/緑に盲目状態になることはない。Lindsey も Kay も、なぜある集団ではこの区別がされないのかを見出すべく、活動的に研究を行っている。

 
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 赤道近くの人々が、言語上の青と緑の区別をしないというのはとても意外です。赤道近くだと両者の区別がとくに必要ないという理由が何かあるんでしょうか? 記事で触れられているように、日差しによるレンズの変質説はまだ証拠が不十分のようですが、他にも原因を想像してみると楽しいです。

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コメント (4)

ナオサン:

■無題
直接関係ないかもしれませんが、日本でも信号の色を「あお」と言いますね。実際の色は緑だと思います。
単に短い単語の方が言いやすいので簡略化した言い方が定着しただけかもしれませんが。

riverplus:

■青と緑
こんにちは、コメントありがとうございます。
たしかに信号は青と緑がいっしょにされますね。言われて初めて気が付きました。
そういえば青リンゴも実際は緑ですね。他の言語でもこういう現象があるんでしょうかね? 面白いネタがひそんでいるような気がします。
http://ameblo.jp/riverplus

のっし:

日本語にも物の固有色で表現する--アズキ色、アカネ色、鉛色、空色、--などがたくさんあります。

アズキ色といっても、アズキの品種や状態によって色に多少のばらつきがありますが、「アズキ色を別の言葉で表現せよ」といわれても「赤が少し紫がかってくすんだ色」などと難しいし、聞いた方でもピンとこない。それで(アズキはほとんどの人が知っているという前提で)アズキ色と表現するのが合理的だし、まさにそうなったと思います。

こう考えると、この調査で問題になる点をあげるとしたら次ではないでしょうか。
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 この調査の目的は、基礎となる色の単語とその使われ方を特定することだった。「基礎的な」単語として数えられるためには、その単語は簡潔であり、頻繁に使用され、一単語である必要があった。フィールドワーカーたちへの指示には明示的にこう述べられていた。「関心があるのは『赤』といった返答であり、『数時間前に死んだオオハシの血の色』といった返答ではない。」
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もし、『数時間前に死んだオオハシの血の色』という解答を無効として調査結果から外していたなら、この鋭い色彩感覚(今死んだオオハシの血の色とは違うことに注意!)が調査結果から伝わってこない。

それどころか結果が逆になる。例えば、赤道直下の原住民が「食べ頃のバナナの色」とか「ココアの実があと三日で熟す?ときの色」などを明確に区別していたとしましょう(原住民にはこのほうが便利)。しかし、この調査ではこれらの色表現が無視されるので、原住民がこの色を識別していないことになってしまう(これってどこかおかしいですよね)。

また、『「基礎的な」単語として数えられるためには、その単語は簡潔であり、頻繁に使用され、一単語である必要があった。』とありますが、これは先進国の絵の授業で植え付けられた色彩観念ではないでしょうか。私達は、12色などの(ちゃんと色の名前が付いた)絵の具を与えられ、これを混ぜ合わせることによって(まさに)色々な色を作り出せることを子供のころに学びました。この先進国の常識を(絵の具など知らない)赤道直下の現地人に押しつけても無理があるような(気がしませんか?)...。

さて、世界のほとんどの言語が緑と青の区別をしていないとのことですが、「青は熟す前の果実など色を表すために発生した言葉」と仮定するとかなりつじつまがあうのではないでしょうか。熟す前の果実の色は黄緑から青緑までのスペクトル領域にあります。つまり、色を表す言葉は特定の狭い範囲のスペクトルを表すために発生したものではなく、生活する上で必要な性質を示す色の総称(見た目で識別できれば広いスペクトルでも良い)として発生したものではないかと考えるのです。実が熟しているかいないかは昔の人には非常に大事なことだったと思いますので、これを一言で表す言葉ができないワケはない(とヒライさんがいっていました)。

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おまけ(くどいかな?)
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 緑と青の間の区別ができないいうのは赤道近くで非常に一般的である。日光と紫外線にさらされることが、そこに住む人々のレンズを黄ばませ、色を感じる能力を変えたのだと Lindsey は主張する。

とありますが...。
色彩感覚の有名な実験(昔のサイエンスに載りました)で、「夕焼けのような偏ったスペクトルのなかでも全ての色を正しく識別できる」というのがありました。これは、人間の脳が一番明るいのを白と認識し、他の色を相対的に補正しながら認識してゆくんだそうです(ウソだと思ったら夕焼け時にカラー写真などを見ると納得します)。なんと、驚くべきことに、赤色レーザー光などの単色光でも多少の色を認識できると書いてありました。これを考えると、Lindsey さんの主張は相当レンズが黄ばんだとしても説得力がありませんし、同じ紫外線下で生きている生き物もレンズが黄ばんでいると考えるのがスジですが、アズマヤドリのようにすばらしい色彩センスをもった鳥がいることからも Lindsey さんの主張は疑われます。

「緑と青の間の区別ができないのは赤道近くで非常に一般的である」と(もしかして言いがかり?)は、『数時間前に死んだオオハシの血の色』を無視する(ちょっと考えられない)調査方法がもたらした弊害かも知れません。ある色付きチップを見せられた現地人が『数時間前に死んだオオハシの血の色』と言う → 「その色にあたる言葉はない」と調査員は結果を記入する → Lindsey さん(達)は「現地人はこの色付きチップの色は見えない」と判断する(え゙ーーーっ!まさか、Lindsey さん、こんなミスはしないよねぇ!)。

 のっしさん、こんにちは。とても刺激になるコメントをありがとうございます。

 今回の調査で特徴的なのは、被験者に色だけを見せた、というところにあるのかなとコメントを読んでいて感じました。

 今回の調査で Lindsey さんたちは、「○○の色」といった回答をすべて除外し、「赤」「青」といった、色のみを表す言葉をピックアップしました。この場合、たとえば日本語だとかなりの色が除外されることになります。「アズキ(の)色」「空(の)色」「桃(の)色」「茶(の)色」・・・これらはみな除外されますね。Lindsey さんたちの判断では、こうした単語はあくまでも色の代用的な表現に過ぎないということなのでしょう。日本語の色の表現のしかたは本当にバラエティ豊かだけど、実際に調査でピックアップされ得る単語を数えてみると、せいぜい数個(赤青黄緑紫?)です。

 他にも、たとえばバナナに対する感受性がすごく高い文化を想像してみます。そうした文化では、「熟れかけのバナナ」「食べごろのバナナ」「腐ったバナナ」のそれぞれに、異なる特別の単語を割り当てていることでしょう。でも、そうした文化は、バナナそのものの単語のバラエティは豊かでも、必ずしもそれぞれの「色」を別個に取り出してユニークな単語を与えているとは限らないと思うんですね。

 結果、調査で扱われるのは、そうした背景を取り去ったあとの単語ということになりますね。これが妥当なのかどうかは分からないのですが、Lindsey さんたちは意図的にそうしているような印象を受けました。
 
 でも、のっしさんの仰るとおり、レンズが黄ばむ説というのは結論としてはあり得ないんだろうなあ。ご説明にものすごく納得しました。同じ環境の他の動物と比べても、夕焼けのときでも色の区別ができるのもそうだし。緑と青の言語上の区別ができないということと、視覚上の区別ができないということとは別のことだと思いました。

 さて、そのうえで、じゃあ色がユニークな名前を持つためには何が必要?ということが疑問になってくるのですが、それが「生活する上で必要な性質を示す」ことなのかなぁ。

 元記事(Nature)の方はいまは読めなくなってますが、同著者らによる他雑誌の論文があったのでリンクを残しておきます。(ほとんど読んでないですが;)
http://dx.doi.org/10.1073/pnas.0607708103