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聖ペテルスブルグのパラドックス(3)

 英文資料を粛々と訳しつづけるぞシリーズ(笑)の第3回です。
 確率のパラドックスとして知られている「聖ペテルスブルグのパラドックス」。
 なかなか興味深い問題であるにもかかわらず、これを日本語で解説した記事がウェブ上に少ないです。
 そこで少しでもリソースを増やすことに貢献しよう、と思い立ってはじめたシリーズです。
 大義名分は以上で、あるいは、自分の英語能力のトレーニングとして。
 あいかわらず、自分の考えというものがまだちゃんとまとまっていない状況ですが、とにかく機械的に翻訳し続けます。
 今回は第3章。


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3.効用の上限

 これまでに提案された2つの再公式化は、いずれも、賞金のドル値が埋め合わせとして増加するという特徴を持っている(第1の場合では、金銭の価値の逓減限界のためであり、第2の例では、そのあり得なさとリスク回避のためである)。いずれの場合も、それぞれの結果の効用は限りなく増加するものと仮定していた。しかし、おそらくこの仮定は正しくなく、賞金の効用には上限がある。その結果、級数の和は極限に達する。Menger は、彼のこの問題の古典的な取り扱いの中で、効用に上限があるという仮定はパラドックスを解決する唯一の方法であると議論する。たとえば、100効用を上限にして、効用=ドル値だと仮定しよう。このゲームの表はこのようになる:

n 確率    賞金 効用  期待効用
1 1/2    $2   2  1
2 1/4    $4   4  1
3 1/8    $8   8  1
4 1/16    $16  16  1
5 1/32    $32  32  1
6 1/64    $64  64  1
7 1/128   $128  100 0.78
8 1/256   $256  100 0.391
9 1/512   $512  100 0.195
10 1/1024 $1024 100 0.098

右側の列の無限級数の和は、およそ 7.56 の極限に達する。理性的な参加料は、7.56 ドル以下のものとなる。

 100ドル以上なら、どんなドル賞金でも最大の効用に達するという仮定は疑わしい。100ドル、1000ドル、100万ドルの価値が、みな同じ――最大の価値ということになるからだ。ドルの最大効用は、もっと高いほうがもっともだろう。ドルの最大効用を1600万に設定すれば、ゲームの理性的な参加料の最大値は25ドル近くになる。この数字は、Hacking が推測する、私たちの直観が受け入れる値である。

 いくらかの人々は、効用に上限を設けることは理性的だと考えている。たとえば、Russell Hardin (1982) は、この仮定を「効用の正当性のための強制」と呼ぶ。William Gustason (1994) は、いかなる結果の価値にも上限があると規定することにより、期待値の概念に制限を加えることを提案している。Richard Jeffrey (1983) も同意している。

 しかし、効用の上限というアイデアは、効用の正当性のための強制だとは見なされないだろう。このアイデアは、金銭の限界逓減効用と区別されなければならないことに注意しよう。理性的に考えて次のことがわかるだろう。もし、(たとえば)1600万ドルが銀行にあったとしたら、おそらく望むものは何でも買うことができるだろう。しかしこのことは、そのような金額によって、許容される最大の効用が与えられると言っているわけではない。すぐに想像がつくことだが、そのような金額を持つ人――あるいはどんな金額であっても――は、お金では買えない、ある種の物を持たないため、なお効用に欠いていることになる。効用の上限というアイデアが意味するのは、ある量の効用が存在し、それは高すぎるため、追加的な効用が不可能――つまり、何を付け加えてもこれ以上の価値を決して増やせない――ということである。あらゆる富を使用できる人を想像してみよう。彼はなお、満たされない願望を持っているだろう。たとえば、彼の友人・親戚が彼と同じくらい幸福であるようにという願いだ。もしこの願いが叶えられたなら、そのときは、彼はなお、見知らぬ人が同じく幸福であるようにと願うだろう。そして、彼の幸福を分け与えるために、現在よりも多くの人が世にいることを願い、そしてより多くの星が幸せな人々で満たされることを願うだろう。より多くとはどのぐらいだろう? 多ければ多いほどいい――限りなく多くだ。もしも効用に上限があるのなら、これが最良だ、というある有限の量の効用が存在し、その量は、他のいかなるものとも引き換えにしたいと思うものである。そのような量が存在するなんて、もっともらしいとは思えない。

 享受可能な効用に上限がある人々がいると想像するかもしれない。ある有限個の願望を持ち、それぞれの願望が、ある有限状態によって完全に満たされるような人々だ。このような人々にとって、賞金の効用は限りなく増加するのではなく、聖ペテルスブルグのゲームは、ある有限の期待効用を持つ。はたしてそのような人々は存在するのだろうか? これは経験にもとづいた疑問である。どんな場合でも、「多ければ多いほどいい」という願望を持つ人々は確かに存在するし、そんな人々はいないとか、価値は無限には増加しないとかいった、経験的で不確かな主張によって理性的な選択理論が制限を加えられるべきではない。そして、このような主張はたしかに、聖ペテルスブルグのパラドックスの解決として機能するには根拠が十分でない。

 Gustason は、「このパラドックスの要点は、もし無限大の値のようなものが存在するのなら、それを含むような行為や結果は、期待値の概念の範囲を超えているということだ」と言っている。Jeffrey は、私たちがここで適用している評価理論は、「そもそも、望ましさが有界だという考えに密接に結びついている」と述べている。しかし、この理論がそのような結果を想定して設定されていないという事実は、この場合の適用を拒もうとするのにちょうど良い理由とはならない。両方の著者が、望ましさに限りのないゲームを除外した主な理由とは、そうしないと、聖ペテルスブルグのゲームが無限の期待効用を持ってしまうからだ。しかし、このアドホック(特別)な論理的根拠は、この結果が耐えられないものでない限り、強制的なものではない。この結果を容認できる可能性は、のちほど考察する。

 Hardin は、効用が有界かどうかは「論理的というよりも事実的な問題」であり、聖ペテルスブルグのパラドックスを解決するためにそれを実施することは、「このパラドックスがアンチノミー(二律背反)ではないと仮定することだ」という意見を提案している。彼が意味するのは、このゲームによって課される困難は、効用が有界でないという事実的な仮定(単に論理的な特徴によらない)に起因するするものであって、この仮定をはずすことによって、この困難は取り除かれるということだ。しかし、もしこのゲームによる困難が見出せないなら、この仮定をはずそうとは思えない。

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 コメントをちょこっとだけ。
 僕の直観では、聖ペテルスブルグのパラドックスは、本質的には、無限の概念と無関係のように感じています。
 たとえば、「表が1000回続いたら強制的にゲーム終了」というルールを新たに付け加えたなら、ゲームから無限の概念は消えうせます。
 しかし、ゲームの期待値は1000ドル、非常に高額であり、たとえ100ドルでも参加料として支払いたいとはやはり思えません。
 したがって、この章の、効用の上限というアイデアは、はたしてまともに取り合ってよいものか、疑問のあるところです。
 いや、僕の考察が不十分だ、という結論が今のところの最有力候補ですが。。;

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