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聖ペテルスブルグのパラドックス(2)

 以前(2月12日)に紹介した、聖ペテルスブルグのパラドックスについての解説ページ。
 現在、無謀にも、このページの翻訳にチャレンジしています。

 Stanford Encyclopedia of Philosophyこれです。

 前回に前章と第1章を訳し、そして今回、第2章の訳に挑んだわけですが。
 ・・・だんだんと、やめとけばよかった、という気になってきました。
 なんというか、自分で読んで、文脈の意味不明な箇所が多い。
 
 ですが、ここまで来たからには、それなりの形のものを作りたい。
 というわけで、気が付いたときに適時修正を加えていく、という前提で、ひとまずのアップ。

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2.リスク回避

 次のような議論を考えよう。聖ペテルスブルグのゲームは、莫大な賞金を得るチャンスを提供している。例えば、表が40回続けば、非常に莫大な1.1兆円という金額が支払われる。もちろん、この賞金が起きるのは稀である。およそ1.1兆回に1回だ。半分の割合で、このゲームではたった2ドルしか支払われず、75%の割合で、4ドル以下の賞金という結果になる。25ドル以上が得られるチャンスは、25回に1回以下である。(25ドルは、Hacking が提案する、リーズナブルな参加料の最大値である。)非常に低い利得しか得られないのがほとんどで、高い利得が得られるというのは非常に稀である。25ドル以上を投資するというのは、愚かしいリスクである。

 この種の推論は魅力的であり、これが説明する直観的な考えは Hacking のそれと一致する。私たちの多くはリスク回避的であり、極めて小さなチャンスで莫大な賞金が得られるとしても、チャンスが小さ過ぎるため、賭けをしようとは思わない。Weirich は、この種の考察が聖ペテルスブルグのパラドックスを解決すると主張する。彼は、リスク回避要因を理性的な計算に取り入れた、複雑な方法を提示し(ここでは立ち入らない)、理性的なゲーム参加料には、ある有限の上限があるという結果を出した。

 しかし、このアプローチには反論がある。1つには、リスク回避要因は、理性的な決定を行う上で、一般的に適用できる考えではない。なぜなら、中にはリスク回避的でない人々もいるからだ。現実にはリスクを楽しむ人々もいる。例えば、州営宝くじを日課として楽しんでいる人々はどう見なすべきなのだろう? あるいは、カジノで純粋なゲームに賭けをする人々は?(これらのゲームでは、期待効用よりも、参加料の方が大きい。)単にそのような振る舞いは理性的でないだけだ、と片付けることも可能だが、時にこれらのプレイヤーは、自分たちはリスクの興奮を楽しんでいるのだ、と説明する。いずれにせよ、聖ペテルスブルグのゲームの理性的な参加料の最大値はかなり小さいと広く感じられているのはなぜか、といった疑問に、リスク回避の考えが説明をしてくれるかどうかは、決して自明ではないのである。一方で同時に、多くの人々が、極めて低い確率でしか大きな賞金は得られないことから生じる、くじの巨大なリスクを回避しないのである。

 しかし、議論のために、聖ペテルスブルグのゲームの適切な参加料は有限で小さいものだという理性的な直観は、リスク回避という考えによるものであると仮定しよう。しかし、こう仮定しても、パラドックスはなくならない。なぜなら、このリスク回避が考慮に入れられるよう、再び賞金を調節することが可能だからである。

 あなたが賭けを好まず、たとえ勝算があったとしても、小さな確率で大きな賞金が得られるようなゲームに、参加料のリスクを冒したくないものとしよう。例えば、1ドルの宝くじ券を提示されて、そのくじは、10分の1のチャンスで20ドルの賞金が得られるものと想像しよう。ゲームへ参加することによって、あなたは効用を失う。あなたはリスクを嫌うからだ。しかし、推定されるように、賞金をやや増加させることで、この効用の損失の埋め合わせをすることができる。おそらく、10分の1のチャンスで100ドル得られるのであれば、あなたは1ドルを投資するだろう。もしそうでないなら、1000ドルはどうだろう。リスク回避に対して、埋め合わせをするのに十分大きな賞金があることは明らかである。

 では、聖ペテルスブルグのゲームに、あなたは参加料として20ドルしか払うつもりがないものとしよう。リスク回避のため、これ以上は払わない。利得が大きくなることから増加するリスクをこれらの効用から差し引くと、その結果として、最右列の数字は、確率が小さくなるにつれ減少していく。そして最右列の和は極限に達する――おそらく25ドルである。しかし今は、各結果に固有のリスクに応じて、賞金の増額によって返金を行うよう、ゲームの再公式化を行うことができる。例えば、より大きな賞金に対するリスクの増加(=確率がより低くなる)への埋め合わせとして、それぞれの賞金額を2乗したとしよう。もしこれがリスク回避にとって十分な埋め合わせでないなら、さらに賞金を高くしてもよい。いずれの場合も、リスク回避の埋め合わせをするのに十分大きい、賞金のスキームが存在するようだ――それぞれの賞金のドル効用からリスク要因を引いたものを、1効用に等しくするというやり方だ。このような、より大きな賞金のあるゲームもまた、パラドックスである。

 しかし Weirich は、数列の和を無限にするようなやり方では、賞金を増やしてもリスク回避の十分な埋め合わせとはならない、と主張する。彼は、ある結果に対し賞金を増やすことにより、リスクの恐れ、という意味でのコストが増加すると述べている。宝くじの例だと、賞金を1000ドルまで増やしたとしても、それに対応するように、あなたにとってのリスクが増えることとなり、それゆえあなたは賭けようとしないだろう。提示された賞金がいかに大きくとも、あなたはなお1ドルの券を買おうとはしない。より高い賞金はあなたにとってリスクを高めるからだ。彼が言うには、「面白い言い方をするなら、手の中にいる数羽の鳥が、茂みの中の何羽もの鳥に匹敵する」のである。

 リスク回避がこのように作用すること、あるいは、いずれにせよこの種のリスク回避が理性的として正当化されることを、怪しく思う人もいるかもしれない。賞金が増えるとゲームのリスクが大きくなるなんて、まったく疑わしいことだ。宝くじの例で言うなら、このようなリスク回避のためだけに、どれだけ賞金が高くとも賭けを拒むというのは、病的であって理性的ではない。理性的でリスク回避的な人であれば、誰もが1ドルに見合うとみなすような、十分価値のある賞金(そのようなドル額は普通の小さな効用を持つ)があるに違いない。茂みの中にどんな価値のある鳥がいようとも、手の中の1ドルの価値の鳥のほうがよい、というような人がいれば、そんな人は精神医学の助けが要るだろう。これは理性的な決定戦略ではない。

 しかしながら、リスク回避要因にとって、賞金の増額のような要素が特定のゲームをより魅力的にはするものの、リスク要因を覆すほど十分に魅力的だとは決して言えない、という主張をする人もいるだろう。リスク回避を考慮に入れた上で、ゲームの効用を計算する最も明らかな方法は、そのリスクの負の効用を、まるでそのリスクが賞金の負の面であるかのように、それぞれの賞金の正の効用に足し合わせるという方法である。この計算方法だと、利得の効用を増やすことによって、リスクの埋め合わせをすることが常に可能である。しかし、Weirich の提案は、リスクを、ギャンブル全体と現在のその人の効用レベルとの関数だと見なしている。そうすれば、賞金を増額したところで、リスク回避的な人にとってゲームが好ましいものになることはない。これはどうも疑わしい。もし、ある人のゲームに対するリスク回避には限りがあり、単純に利得の増加によって増えないのであれば、そして、賞金の効用は限りなく増加するのであれば、いくらか賞金を増額させることによって、リスク効用を埋め合わせできることになるだろう(それがどんなに理性的に計算されようとも。)しかし、もし賞金が増加し、さらにゲーム全体の期待効用(リスク要因を無視する)が増加したにも関わらず、それが有限のリスク回避を上回るのに十分でなかったならば、その場合は他の何か(賞金の限界逓減効用や、効用の上限)が作用する。これらの可能性についてはこの記事のほかの場所で議論する。

 しかし聖ペテルスブルグのゲームは、非常に巨大な参加料を正当化するとしている。そのため、宝くじの例は正確には適切でない。高い参加費――例えば、あなたの生涯の蓄え――を持つような例を考えてみよう。どんなギャンブルであっても、常にこのリスクを拒むというのは理性的だろうか? そうではなさそうだ。堅実な銀行に1年間、あなたの生涯の蓄えを預けたなら、あなたは事実上、賭けを受け入れたことになる。非常に高い確率で、年の終わりにあなたは貯蓄を利子付きで戻してもらえる。しかしまた、極めて低い確率で、銀行と預金保険のいずれもが破綻し、一文無しになることもあるのだ。それだけ利子が高く、破滅の確率が低くとも、ほんのわずかのリスクを冒すのを拒むような人がいれば、明らかにそのような人は理性的でない。実際、道路を横断する人は、みな自分の命を賭けているのだ。なぜなら、道路を横断することは、わずかではあるものの、車にひき殺されるというリスクを冒しているからだ。しかし、地上で道路を横断することを拒むような人は、理性的ではない。このようなリスク回避が一般的に適用されれば、誰も身動きが取れなくなるだろう。重要なのは、実際のリスクを考慮に入れ、適切に小さいものを行うことである。

 考えられる対抗する議論は、リスク回避の考え方によって、賞金がいくら高くても小額の参加料を賭けるのを拒んだり、あるいは賞金を得られる確率がいくら高くても高額の参加料を賭けるのを拒んだりするというのであれば、リスク回避は理性的ではないというものだ。しかしこれで聖ペテルスブルグの反論が万事解決するわけではない。ここで私たちが想定しているのは、参加料が高く、賞金が高額になる確率が小さくなるような賭けだからだ。賞金がいくら高額でも理性的にリスクを受け入れられない、ということの最も説得力のある例を出すなら、参加料が高く、賞金が得られそうにもないというような賭けが挙げられるだろう。たとえば、あなたがリスク回避的で、次のような賭けを提示されたとしよう。参加費は、あなたの生涯の蓄え10万ドル(たとえば)で、賞金の得られるチャンスは100万回に1回である。どれだけ賞金が莫大であっても、賭けを拒むのが理性的だろう。なぜそうなのかは考察に値する。

 古典的決定理論によれば、この賭けが理性的であるためには、賞金は非常に甚大なものでなければならない。想定されているケースでは、生涯の蓄えの額の、少なくとも100万倍、つまり1000億ドル以上だ。賞金の増額によりリスク回避の埋め合わせをしようとすれば、賞金はいっそう高額になる。2000億ドルだろうか? 1兆円だろうか? ――莫大すぎて私たちの直観では評価できない。あなたにとって、生涯の蓄えの100万倍以上の価値があるものとは何だろう? 分からないだろう。このような賭けを考えば、あなたの直観は尻込みしてしまうだろう。金銭や家財の限界逓減効用がここでも作用しているのである。そのような大きな効用を与えてくれるものなどない、と考える人もいるかもしれない。しかし、世の中がそのような莫大な効用を持ち合わせていないという事実や、あるいは、これらのことを考える上で直観が当てにならないという事実は、古典的決定理論それ自体にとって難しいことではない。このことに関して、より多くは以下で述べられる。そこでは、この種の実践的な考察であっても古典的決定理論のどこかに誤りがあるとは示されない、という案が議論に出される。

 では、聖ペテルスブルグのゲームにおいて、賞金を増やし、理性的と見込まれたリスク回避的参加者の埋め合わせをしてみよう。ここで再びゲームは、そのような人にとって無限大の期待値を持つ。

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 翻訳とは、非常に熱中してしまう反面、自分の英語・日本語能力の乏しさに愕然とさせられる側面を持つ行為なのだと思いました。

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