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ご注文は以上でよろしかったでしょうか

 コミュニケーションということに関して、思いついたことを2つ。

 人から人へ、何かを伝えるときって、どういうことをしているのだろう。
 と、いうことを考えてみたのです。
 大雑把に書いてみると、おおよそ次のような過程を経ているように思います。
 
ステップ1:頭の中に伝えたいものが、漠然としたイメージとして存在する。
ステップ2:頭の辞書を使って、イメージをメッセージに変換する。つまり、言語化する。
ステップ3:メッセージを、声・文章で相手に伝える。
ステップ4:メッセージを受け取った相手は、頭の辞書を使って、メッセージをイメージに変換する。

 基本的な流れは、イメージ⇒メッセージ⇒イメージという流れです。
 この矢印の部分で、頭の中の辞書を使って、次に進むという感じです。
 この辞書は、<イメージ>と<メッセージ(語句)>の翻訳を行う、自分専用の辞書です。
 何か伝えたいことが頭に浮かんだとき、辞書の中を探して、その内容に最もよく一致する語句を見つけ出します。
 そして、そのような語句をつなぎ合わせ、文をつくり、それを相手に投げるという手続きをとります。
 そして相手は、その逆の手順をとり、受け取った文の語句のひとつひとつをイメージに変えていって、最終的にイメージの全体を手に入れるわけです。

 こういうプロセスって、例えばネットワークで映像データを伝送する様子にも似てなくもないように思えます。
 もともとの映像データでは、データサイズの都合のため、そのままではネットワークを通じて相手に送ることはできません。
 そこで、一度、データを別の形式(MPEGとか)に変換してから、ネットワークに流します。
 受け取った相手は、元の形式にデータを変換して、自分の環境で映像を再生することが可能になります。

 なぜ、このような方法で、映像データの伝送が可能になるのか。
 それは、相手と自分の間でお互いに、変換のルールについての詳しい了解があるからにほかなりません。
 MPEGにしても、非常に詳細な変換のルールが規定されていて、両者はその内容を知っているからこそ、映像の伝達が可能になるわけです。
 
 これと同じような原理が、イメージを相手に伝達するときにも働いているのではないでしょうか。
 つまり、相手と自分との間であらかじめ、ある暗黙の了解を交わしているということになります。
 「お互いの辞書で、同じ語句には同じイメージを割り当てておきましょうね」というような。
 こうやって辞書の変換ルールについて了解をしているおかげで、イメージの伝達が可能になっていると言えます。
 
 では、そこでさらに疑問。
 そんな了解を交わした覚えなんてないよ。僕はいつの間にそんなことをしたの?
 仮に了解してたとしても、イメージの辞書なんて、いったいどうやって作ったのよ?

 ・・・イメージの語源を調べてみました。
 
 イメージ(image)という言葉は、ラテン語の「imago」が語源だそうです。
 imagoという言葉には、「映像」「似顔絵」という意味のほかに、「似ること」という意味もあるそうです。
 imitation(模倣する)という言葉と同じ語源ですね。

 イメージとは、他のものに似せるということ。
 つまり、自分の辞書とは、「他人の真似をして、他人に似せようとすること」によって作られるものなんじゃないか。
 
 ちょっとこじ付けかもしれないけれど、ひとまずの考えとしてまとめておくことにします。
 

 「こちらブレンドコーヒーになります。」

 という表現が、このごろよく話題に上がります。
 言葉の話し手(店員)が、聞き手(客)に対して敬意を伝えようとして、つい使いがちになっている表現です。
 ですが、上記の表現は、敬語どころか日本語としてまず成立していません。
 そのために、聞き手は一瞬、違和感を感じてしまいます。
 あるいは、
 
 「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
 
 という表現も同様ですね。
 
 この頃は、こういったおかしな敬語に対する世間の注目が大きいそうで、つい最近も、この件に関する書籍が出版されたそうです。
 
 ですが、このような傾向を受けて、ちょっと気になっていることがあるのです。
 今の風潮は、「敬語のおかしい人=敬意のおかしい人」というような解釈に、人を陥りやすくしているんじゃないか。
 
 いわゆる「おかしな敬語」の話し手自身は、あくまでも「敬意を伝えたい」と思っているわけです。
 その思いを表そうとした結果、言語として成立していないおかしな敬語が出てきてしまっているのです。
 これは、上で書いた「イメージ⇔メッセージ」のプロセスの図式で言うと、ステップ2の言語化の段階に問題があるということになります。
 頭の中にある敬意というイメージを、敬語というメッセージにうまく変換できていないわけです。
 
 ですから、このようなおかしな敬語を誰かが言ってるのを聞いたとしても、それは単にその人の言語化能力に落ち度があることが明らかになっただけであって、その人の持つ敬意に問題がある、と短絡的に結びつけることは決してできないと思うのです。
 
 いや、だからといっておかしな敬語を使っても構わない、ということには絶対になりませんが。
 実際、僕もすごく気になってしまいますしね。
 ただ、おかしな敬語を話す人を批判するときには、ぜひとも批判するポイントをはっきりさせてから批判すべき、ということなのでしょうかね。

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コメント (3)

綺麗山:

■こんにちは。
riverplusさん、読者登録ありがとう。これはコミュニケーション学や心理学でよく論じられるよ。話し手の内容と聞き手の内容はどうしたらより合致させられるか、という問題。図を書くのはより正確に伝える手段の一つだね。その辺は僕のブログでそのうち書かせてもらうつもり。今後もよろしく。


http://psychnote.ameblo.jp/
asahisinbun:

■敬語のムズカシさ
「~でよろしかったでしょうか?」
って、なんかおかしいと思いながら
ついつい使ってしまっています。
言葉って難しいですネ。
でも、ある意味、
本当は文法的におかしくても、
使われて市民権を得ちゃうと、
容認されてしまうものかもしれませんネ。
でも言葉づかいって大切。
気をつけマース。


http://asahishinbun.ameblo.jp/
riverplus:

■うっかり言ってしまう。。
> 綺麗山さん
素人が考えてみたコミュニケーション論、改めて読むとなかなかこっ恥ずかしいものです(苦笑)。
非常に見識のある記事を頻繁に書かれていて、本当に勉強になります。期待しています^^

> asahishinbun さん
よろしかったでしょうか、は、僕もついうっかり言ってしまう不思議な表現なのです。
過去形にすると、それだけで何だか敬意がアップしているように思えてしまうんですよね。
何でなんでしょうね。

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